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縁の下のバイオリン弾き
26 Mto.
2011年6月15日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ フリードリッヒ・ニーチェ
シェークスピアの自筆原稿は残っていない。それでこの人物が実在したのかどうか、昔から議論のたねになってきた。だれかのペンネームなのではないか、というわけだ。シェークスピアの署名は残っているが、それが偉大な劇作家のものであるのか、あるいはだれかに名前を貸した才能のとぼしい男のものなのかはわからない。

その署名のひとつは Wm.Shakespeareと書かれている。10代の時にそれを見た私はなるほど、こうやって簡略化した署名もあるのだと思いこんだ。そのころはかっこいい「英語の」署名を書き散らしたい年代である。私は自分の「にしむら・まさと」という名前をシェークスピアばりに Mto. Nishimuraと書くことにした。

若気の至りというほかはない。アメリカに移住してローマ字で署名しなければならない私は今でもこれを使っている。

こういう簡略法はどんな名前にもおこなってよい、というものではない。ウィリアムという名前がありふれているからWm.と書けばだれが見てもWilliamだとわかるのだ。そういう前提のない名前を略してもチンプンカンプンになるだけだ。Mto.などと書くのは非常識を通りこしてこっけいである。

そういう簡略化された書き方の中にはGeo.と書いてGeorge(ジョージ)と読ませるもの、Chas.と書いてCharles(チャールズ)と読ませるもの、Arth.と書いてArthur(アーサー)と読ませるものなどがある.これらは実にありきたりの名前だから略して書いてもだれもまちがわない。

ありきたりの名前と書いたけれど、英語のファーストネームは男女を問わずありきたりの名前が実に多い。もともと聖人の名前をつける慣習があったため、数がかぎられてしまったという事情がある。

パーティーでもすれば男ならジョン、トーマス、マイケル、リチャード、デーヴィッドなどという名前がきっと出てくる。へたをすれば同じ名前の人間が3、4人いる、ということになりかねない。女ならばエリザベスとその略称、エリ、リズ、ベス、ベティ、ベッツィなどだけでもけっこうな数になるし、アン、ジェーン、メアリー、ジュディなどのよくある名前でだいたいいっぱいになる。

苗字のほうは移民の国が多岐にわたるためそれこそ千差万別なのがアメリカだが、ファーストネームをこういった限られた数にしておけば社交上たいへん便利である。だれかに紹介されたあとで、「ああ、あの人はなんて名前だっけ?」となやまなくてもいい。

考えてもみてください。日本では名前のほうはめったに使わず、たいてい苗字で呼ぶ。その苗字が百くらいしかないとしよう。そうなれば佐藤さん、鈴木さん、田中さんなどでいっぱいになる。一発でおぼえられる。たとえまちがってもたいしたことはない。佐藤さんか伊藤さんかぐらいのちがいだ。

「その他大勢」というときに英語では Every Dick, Tom and Harryという。それぞれリチャード、トーマス、ヘンリーの愛称でどこにでもころがっているやつら、という意味だ。

中国語ではそういう時に張三李四(ちょうさんりし)という。張も李もありふれた苗字でそれに三、四とつけるのは三男、四男という意味だ。「一人っ子政策」が実施される前の中国では子どもは多ければ多いほどよい、とされていたから三男坊、四男坊はごろごろしていた。

中国は人口にくらべて苗字が極端に少ない。2000ぐらいだといわれているけれど、重要なのはトップの100姓で85%を占めるということだ。中国には100ぐらいしか苗字がない、といってもそれほど的をはずしたことにはならないわけだ。そのため、昔から「百家姓」という苗字だけを並べた本があった。これを習字のお手本にするのだ。

韓国も少なくて300ぐらいしかない。ベトナムはもっとすごくて「グエン」という姓の人間が国民の半分ぐらいはいるからたとえばグエン・カオ・キ、グエン・ヴァン・チューなどという同姓の人間を識別するためにはキさん、チューさんといわなければならない。

それにくらべて日本人の名前はどうだろう。日本語にはEvery Dick, Tom and Harryだとか、張三李四にあたる言い方はない。「八っつぁん熊さん」は落語に出てくるが実際に日本人の名前を代表しているかと言ったら賛成する人はいないだろう。また苗字だけで辞書が必要なほど多彩だ。数え方にもよるが30万あるという。その中のトップ7000姓で96%を占めるそうだ。いいですか、7000姓ですよ。これならどんなに誤差があったとしても中国との違いはあきらかだろう。張三李四なんて便利な言い方ができるわけはない。しょうがないから名前を使うのをあきらめて「どこの馬の骨が」なんて言う。

ファーストネームのほうは昔は何太郎、何夫、何彦とかが多かったし、女ならば昭和の後期になるまでは何子とつけるのがふつうだった。ところが現在はそういう規範がとっぱらわれた。どんな名前をつけてもいいことになった。その結果はどうなったか。苗字でさえ千差万別なのに、名前がもう手のつけようがないほど多様になった。それに漢字の書き方が加わる。小学校の先生ならよくご存知だと思うが、たとえば「ゆき」という名前にいく通りの書き方があるだろうか。

創造性に富む、といえないことはない。しかし、名前というのは識別のためにつけるものだ。それが今の日本ではほとんど識別の極限までいってその機能をなくしていると思われる。その人ひとりしか持っていない名前と漢字はたしかにユニークではあるだろう。しかしそういう名前をまわりの人に記憶させるのはエネルギーの無駄ではないか。「五百旗頭雅騎」(いおきべ・まさき)だの「纐纈栄籬華」(こうけつ・えりか)だのという名前の人にとりかこまれるとなんだか不安になってこないだろうか。(ファーストネームのほうは私が勝手に作ったものだけれど、五百旗頭や纐纈は実際そういう苗字の人に会ったことがある)。

そんなことをいっても、一度勢いを得たトレンドをもとにもどすことはできないだろう。パソコンの普及でどんなむずかしい漢字も恐れることはなくなった。これからも日本人の名前は子どもの迷惑を考えない親の想像力の戦場になるのだろう。我が子にはほかにない新しい名前を、という親心は一種のモンスターをつくりだしているのではあるまいか。

私がこんなことを書くのは自分がそういう変わった名前の被害にあってひとかたならぬ苦労をしたからだ。私の名前は「まさと」という。漢字は万里である。この字でこの読ませ方というのはたしかに存在する。昔にもそういう名前の人がいたことはいた。しかし圧倒的な少数派だ。

なにより悪いことはこの漢字ではふつうは「まり」としか読めないことだ。だれだって女だと思う。学生時代、手帳をなくしたりするとひろった男の学生から電話がかかってきたものだ。大学を卒業して香港に行ったときはほんとうにほっとした。万里という名前は中国にもある。万里の長城を連想させるから当然男性的なイメージがある。友人が私に中国の姓をつけてくれた。それはありふれた「陳」という姓だった。陳万里ならもう大いばりというものだ。

アメリカでは、私は自分のファーストネームを呼ばれるのを好まないため、「ニシ」でとおっている。しかしこんな簡単な名前でも、それがありきたりの名前のリストにないために、ふつうのアメリカ人はおぼえるのにえらい苦労をするらしい。「すし」と呼ばれることもある。「ニーチェ」だと思い込んでいる人もいる。

中国人はアメリカに住むとたいていジョンとかメアリーだとかの英語の通称をつける。中国音の名前というのは漢字の裏付けがある日本人にとっても難物だ。まして漢字を知らないひとびとにはとても発音ができないし、できたところで識別の役にはたたない。「チャン」とか「チェン」とか「ワン」とか「ホァン」だとかみんな同じに聞こえてしまうのだ。だから英語の通称をつけるのは実際問題として唯一の解決法だ。私もそうすればよかったのかもしれない。しかし今となってはもう遅い。

親がどういうつもりでこんな名前をつけたのかは知らない。しかしそのおかげで日本を離れ、万里の波濤(ばんりのはとう)をこえてアメリカに住んでいる。名前が将来を予測したと言おうか、名前のたたりでこうなったと言おうか…。

名前は人間の標識だ。標識は分かりやすい方がいい。


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