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48 ポール・デュラン−リュエル (Paul Durand-Ruel)
2006年9月26日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。


















ポール・デュラン−リュエル (Paul Durand-Ruel)


ゴーギャンやゴッホは、今や後期印象派の画家として美術史上、美術市場のいずれでも高い評価を受けています。そして彼らを含む印象派と言えば、日本を含む世界の美術市場で極めて人気のある、つまり取引価格の高い絵画としての評価が定着しています。そうそうたる画家達がキラ星のように揃っています。

ところが、印象派は誕生時点からそんな幸運にめぐまれていたわけでは決してありませんでした。それどころか、彼らは誕生当初は、既成アカデミズムを中心とする当時の画壇の権威者達によって <ぼろくそ> の評価を受けました。

1874年の第1回印象派展で旗揚げした彼らを待っていたのは、当時のフランス美術アカデミズムからの徹底した敵視であり、その結果、アカデミズムの評価をそのまま鵜呑みにする一般の人々の中で、旗揚げ後10年以上はまったく売れない時代が続きました。

マネ、ドガ、セザンヌのような上層ブルジョワ家庭出身者を除けば、ほとんどの印象派の画家達は経済的に辛酸をなめ尽くしました。モネやシスレーなどはその典型です。決して当初から売れる画家として元気に活動していたわけではないのです。

考えてみれば、印象派の誕生は、美術における一種の革命であったのです。ではいったい何がそれほどまでに既成画壇の反発を買ったのでしょうか? 既成画壇は印象派の画家達の革命性ゆえに猛反発したわけでしょうが、その革命性とはいったい何だったのでしょうか?

これまで何人かの印象派の画家達についておしゃべりして来ましたし、これからもまだ予定しておりますので、今回はちょっと印象派に関する美術史上の理屈(屁理屈かもしれませんが・・・)について書かせていただこうと思います。とは言うものの、私のことですから、そんなに難しいことは書けません。仕事の合間に簡単に理解できた程度の素人論です。お気軽にお読みいただけたら幸いです。

印象派の持っていた革命性、それは3つのポイントにあると私は考えています。ひとつは扱う主題の点、もうひとつは技法の点、そして最後はもっとも重要な点なのですが、はじめて自我を確立させた近代人の自我の表現であったという点です。

まず第1の点です。印象派の画家達が扱った主題は、それまでの神話や宗教から素材をとった画と違い、物語性をほとんど持たない身の回りの現実を対象としていました。今でこそ、そんなことは当たり前と考えられていますが、それまでの絵は肖像画以外はたいていの場合、ある種の普遍的テーマとか、教訓的テーマを盛り込んでいたわけですから聖者や英雄ではなく、名もない人やモノが堂々と描かれている絵などは、醜く、汚らわしいとしか考えられなかったと思います。それまでは例外的だったこうした身の回りの現実をテーマにした絵だけを描いた点が、まず第1の革命性です。

第2の点、技法に関しては、当時ようやく開花しつつあった色彩に関する科学的な理論が大きく寄与しています。それは、色覚混合に関する分析です。離れたところから2つの併置された色彩を同時に見ると、網膜上でそれが混合して見えるというあれです。

彼らは戸外制作の実体験から、ものには固有色などというものはなく、色調は周囲のものの反射や光の具合で変わるとか、明るい光の下の自然には黒という色は存在しない、とかいうことを実感していました。したがって混ぜれば混ぜるほど黒に向かって変化していく絵の具は、混ぜてしまうと明るい輝きを失ってしまうと感じました。そしてそこから分割技法や、当時の画壇から嘲笑された、未完成らしさが生まれたわけです。なにせ当時の画壇ではモノには固有色があり、あとは正確なデッサンと、なめらかな仕上げで陰影をつけるだけという考え方が主流だったわけですから、「印象派と称する、これらの無学な画家達」のこうした考え方などは異端もはなはだしいと考えられたのです。

第3の点で、もっとも重要だと思われるのは、画家としての自分の主観、自分の印象、自分の目、自分の感情を大切にする制作スタイルにありました。つまり、自分の目にモノがどう映って見えるかということを徹底して大切に考えたのです。ですから、たとえばモノに固有の色があるかどうか、などということは彼らにはどうでもよかったのです。

つまり、自我を確立させた近代人の自己表現、これこそが印象派の革命性だったのです。今から思えば、あの時点で印象派が誕生していなかったら、世界の美術史はなんと寂しく、魅力のないものになったことでしょうか。個人の確立のための意識革命が、美術の世界で一斉に開花したのが印象派の登場だったのです。そして、そのことを明確に意識したか、しなかったかは別として、既成画壇は本能的に嫌悪感を感じたのです。

いずれにしても、こうした状況の中で、印象派の画家達は当初孤立無援でした。彼らに共通していたことは、反アカデミーの意志と、自分たちの芸術の未来を自らの手で切り開こうとする強い決意でした。彼らの多くは、旗揚げの時点ですでに30歳代に達しており、養うべき家族もいたわけですから、いわば青臭い口先だけの理論家ではなかったのです。

結局印象派展は1874年の第1回から、1886年の第8回まで12年間にわたって開催されたのですが、ちょうどこの期間が画家達にとっては、もっとも経済的には苦しい時代でした。この間、時として生活のためにあまり気の進まない注文肖像画の仕事なども、やりながらではありましたが、彼らはそれぞれに自分の描きたいものにおいては、その志をほぼ全うしたといってよいと思います。

でもその裏には、たいへんな名画商がいたのです。それがポール・デュラン−リュエル(1831〜1922)です。デュラン−リュエルが印象派と初めて出会ったのは、彼が39歳で、彼の父が創業した画廊を引き継いで5年しか経っていない時でした。

当時彼はバルビゾン派のミレー、コロー、ドービニー等の作品を手がけていました。バルビゾン派は、今では印象派の先駆的な存在として美術史上で確立されておりますが、当時はやっと世に認められ始めたばかりでした。ドービニーの紹介で、モネと出会ったデュラン−リュエルは直感的にモネやピサロたちがバルビゾン派の次の世代を担う画家であることを確信し、直ちに作品を購入し始めました。

ところがこれが売れなかったのです。印象派で儲けるどころか、肩入れしすぎて在庫は増える一方。画壇の権威者がボロクソにけなすものですから、業界での立場も苦しくなってきました。「怪しげな印象派などという作品を扱っていると、これまでに築いてきた信用を損なうよ。」 と業界内外から警告を受けたりもしました。そこでもっとも苦しい時期にはつい、「自由の身になって、砂漠で暮らしたい。」 などと愚痴も言いましたが、この温厚な紳士は商人としても、そうヤワではありませんでした。

「本当の画商は、同時に視野の広いパトロンでなければならない。芸術上の信念にしたがって、必要とあれば直接の利益を犠牲にすべきだし、相場師の利益には、迎合するよりも対立することを選ぶべきである。」 こう言い切った彼は、1886年に新天地アメリカへ、300点もの印象派の作品を携えて出かけ、大成功をおさめました。そしてこれをきっかけに、フランスでも印象派の評価を定着させることに成功しました。

彼は、画家達の中でルノワールとの関係がとりわけよかったと伝えられています。画商としてもっとも苦しかった時代に、少しでも売れるようにと安い値をつけるのを、印象派の他の画家達はたいへん嫌いましたが、ルノワールだけは彼に「売れたらもっといいのを描いてあげるよ。」と言って励ましたといいます。リモージュで陶器の絵付け職人をやった経験のあるルノワールは商売の難しさを少しは理解していたのかもしれません。

この名画商は、あれだけ大勢の画家達に囲まれていながら、自分の肖像画というものをほとんど描かせませんでした。わずかにルノワールだけが1枚、1910年に描いています。上の絵がそれです。どうですか? この紳士の目つき、顔つきは。この人の人柄と、長い間の2人の友情がよく現れていると思いませんか? 私はこの人の顔や目が好きですねえ。こんな顔つきになれたらいいなあ、と思っています。

この美術史に残る画商は、親友ルノワールが没してから3年後に、苦労が多かったけれども充実した人生を91歳で終えました。1922年(大正11年)のことでした。


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