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縁の下のバイオリン弾き
25 『チャイナタウン」
2011年6月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 「チャイナタウン」のジャック・ニコルソン
日本にいる私のいとこは旅行がすきではない。「たまには旅行してみたら」といっても、「だって、湯につかって飯食うぐらいだろう。変わりばえしないよ」という。つまり、かれにとっての旅行は温泉にいくことなのである。

しかし、旅行イコール温泉というぐらい、いとこにとって風呂にはいることは大事なのだ。ほかに旅行の目的はないぐらい。

私にとっても風呂に入ることはとても大切なことだ。でも、好きな時に温泉に行けるいとことちがって、外国に住んでいる私には事情はもっと複雑だ。昔は風呂ひとつのために日本に住む人からは想像もできないような苦労をした。

最初に行った外国は香港だった。大学の夏休みにちょっとだけ行った。それですっかり香港にはまってしまい、卒業すると香港に仕事を探して6年半ぐらい住んだ。香港を出たのは29の時だから私は青春の大部分を香港で過ごしたことになる。今でも自分を作ったのは香港だ、という気がしている。

最初に行ったときYMCAにとまった。そこではじめて西洋風のバスタブを使った。日本の風呂とはちがって、湯のなかでせっけんを使う。私は映画で見た泡風呂を経験してみたいと思って一生懸命せっけんを泡立ててみた。ところがいくらやってもバブル・バスにはならない。濃いせっけん水になるだけだったのでがっかりした。

しかしそのせっけんの湯につかりながら、私は新発見をしたような気分になっていた。「これは人間の洗濯だ」とひらめいたのである。

私はそれまで風呂の機能をよく考えたことがなかった。日本にいたときは風呂に入ることと清潔、衛生ということが頭の中でほとんど結びついていなかった。それはもちろん風呂に入れば体はきれいになる。でもそのために風呂に入っていたんだろうか。そうではあるまい。体をきれいにすることが目的なら洗い場で体を洗った時点で湯をかければすむことである。なんのために長い間湯につかっていたのか。それはいうまでもなく快楽のためだ。風呂に入るということは日本人にとっては積極的な快楽なのである。

だから温泉宿に泊まると朝一番に風呂に入り、そのへんを見物してから夕食前にひと風呂あび、食後にまた本格的に風呂に入るというように何度も湯につかる。 事新しげにここに書くのは気がひけるほど、日本人にとってはそんなことはあたりまえのことであり、疑問の余地のない行動であって、その理由を説明する必要さえ認めない。

私は現在アメリカで日本語の教師をしている。日本の文化を説明するのも仕事のうちだから、1年のうち必ず1回はこの日本人の温泉好きにふれる。すると学生は温泉そのものにはあこがれの目をむけるものの、この1日に何度も風呂に入るという事が理解できない。それはそうだろう。彼らにとって入浴は歯磨きや洗面とおなじような目的のある行動だ。それを何度も繰り返すというのは理解をこえている。

ところが私は香港でまったく逆の経験をしたのだ。せっけん水の中に体をひたしているのは、着物の洗濯と同じではないか。いままで日本で体中にせっけんをつけてごしごしこすっていたのは汚れやあかをこすり落とすつもりだったのだけど、そんなことをしなくても、ただこうしてせっけん水のなかに横たわっていさえすれば洗濯機の中の洗い物同様、自然にきれいになっていくだろう。日本では湯の中でせっけんを使わないからこんな連想はおこらなかった。

というわけで入浴の「機能」にめざめたのだけれど、大学卒業後決心して香港に移住してからは風呂では本当に苦労した。間借りした中国人家族のアパート(香港には一軒家に住んでいる人はいない)にはバスタブはあったけれど湯は出なかった。それも道理、亜熱帯の香港ではだれも本格的に風呂に入らない。冲涼(チョンリョン)といってちょっと水を浴びるだけだ。

しかし私は熱い湯がなければおさまらなかった。そこで台所でやかんいっぱいの熱湯をわかし、バケツにそそいで水で薄めてからそれをバスの中に持ち込み、タオルで体を洗った。まあ、シャワーなしのシャワーだったわけだ。本物の風呂に入れないのがつらかった。

香港の隣というべきか、珠江の河口にひろがる海をへだてたところにマカオがある。そのころマカオはポルトガルの植民地だった。有名なカジノがある。私はギャンブルの為に何度もここに行った。当時現地やといでイギリスの会社につとめていた。ひどい安月給で、よくあれで生活できたと今になって思う。

だから勝てないギャンブルをするのは即生活をおびやかす危険な習慣だった。でも私には夢があったのだ。金ができたらカジノのある豪華ホテルに一部屋とり、大きなバスタブに思う存分湯をいれてつかりたい、という夢が。残念ながら一度もそれを実現したことはなく、場末の木賃宿のベッドで蚊に食われながら残ったコインの数を勘定するばかりだったけれど。

アメリカではたいていシャワーをあびるだけのようだけれども、私は今でもよく風呂に入る。首まで湯につかる事を夢見ていた若い頃の事を思うととてもシャワーだけではすまされない。これが私のただ一つのぜいたくだ。

風呂のことを書いたからタオルのことも書こう。今日本ではほとんどすべての人が風呂上がりにタオルを使っている。温泉にある「手ぬぐい」も日本古来のものではなく、タオル地である事が多い。

高校生のころ、当時有名だった松本亨の英語の参考書を読んだ。そのなかにアメリカ人の友人をつれて温泉に行ったというエピソードが書かれている。その友人が風呂に入った後、「ぬれた体の上にゆかたを着てもいいか」と尋ねた。「まず手ぬぐいをしぼって体をふいてからだ」というとそのアメリカ人が「どうやってしぼるのかわからない」と言った、というのだ。

私はこれを読んでびっくりした。手ぬぐいをしぼる、なんてのは人間のごく普通の行動だと思っていたからだ。しぼる事を知らない人間がいようとは思わなかった。

でも今考えてみるとこれは必ずしも正確な描写とはいえない。松本先生の誇張というか、少なくとも説明不足がある。

アメリカ人だって「手ぬぐいをしぼること」が「体をふくこと」の前段階だと理解していればしぼる事ぐらいするだろう。かれらはふつう布をしぼるという事をしないが、もしするとすれば、たとえばぬらしたハンカチをしぼって顔をふいたり、熱にうかされた病人の額に冷たいタオルをのせたり、と「水分を与える」ためにしぼるのだ。温泉で手ぬぐいをしぼるのはまったく正反対の目的、つまり水をふき取るためである。でもぬれた布で体をふいて何になるのだ、それではやっぱりぬれたままじゃないか、と思うからしぼった手ぬぐいで体をふくというのは不合理に映る。

今や日本人もそう思っている。だから手ぬぐいはすたれた。だれでも湯上がりにバスタオルを使う。タオルといいうものはすべて水滴を吸い込ませるために作られている。そのため、英語ではタオルを使う事を「ドライ・ユアセルフ」という。直訳すれば「あなた自身をかわかす」ということだ。これは日本人にはたいへん違和感がある表現だと思う。

「体をふく」ことを「ドライにする」つまり「かわかす」ことだと思っている日本人はひとりもいないだろう。ふいた後の体はかわいているだろうか。そうではあるまい。湯上がりの肌はしっとりとうるおっているのだ。

「かわかす」ということばは何も使わない時にいう言葉だ。落語の「湯屋番」で、

「若旦那,早く顔を洗っちまいなさいよ」
「もう洗ったよ」
「洗ったよって、あなた、顔をふかないんですか」
「ふきたい気持ちはあるんだけどね。この間手ぬぐいを二階のてすりへかけておいたら、風でふきとばされちゃったんだ。それからというものは、顔はふかない」
「どうするんです?」
「おてんとうさまの方をむいてかわかすんだよ。お天気の日にはかわきがはやい」
「だらしがねえな、どうも…手ぬぐいをあげますから、これでおふきなさい」
「ああ、ありがとう。やっぱり顔はかわかすよりもふいたほうがいい気持ちだ」

といっているとおりだ。

バスタオルはただ体にじっとおしあてさえすればいい。そのため、アメリカのバスタオルはやたらに大きい。その延長が湯上がりに着るバスローブだ。タオル地でできていて、ぬれたからだにまとえばいいようになっている。松本先生の友人はゆかたをバスローブだと解釈したからぬれた体に着てもいいかと聞いたわけだ。

「手ぬぐいをしぼれ」といわれても、かれにはそもそも何のためにしぼらなければならないのかわからない。「しぼる」ことが「体をふく」ことに頭の中で直結していなければただぼうぜんとするばかりなのだ。

築地の魚市場の中で手ぬぐいを買ったことがある。そこのおじさんは「今はみんなタオルになっちまったけど、やっぱり手ぬぐいが一番だよ」といっていた。手ぬぐいは長いもめんの布を一定の間隔で切り離して作る。その端は縫わないで切ったままにしておく。こうすると水分が流れてかわきが早い、ということだ。

ジャック・ニコルソンの出世作「チャイナタウン」に日本人の庭師が出てくる。いや、べつに日本人と言っているわけではないけれど、その眼鏡をかけた東洋系のおじさんはベルトに手ぬぐいをはさんでいるのだ。日本人以外に腰に手ぬぐいをぶら下げる人種はない。

あの映画はロサンジェルスの水利にかかわる利権が背景にある。水利局の課長が貯水池で死んでいた。かれは殺されたのではないか、しかも殺されたのは貯水池でではなく自分の家の池の中だったのではないか、とニコルソン扮する探偵は考える。その場面に出てくる庭師だ。時代は1930年代だろう。そのころカリフォルニアで庭師として働いていたのはほとんど日本からの移民だった。当時の激しい人種差別のせいで日本人の職場はごく限られていた。そして日本人は庭師としてたいへん優秀だったのである。

でも監督のロマン・ポランスキーはどうしてそのことを知っていたのだろう。かれはきっすいのアメリカ人ではなく、この映画を作る数年前にフランスからアメリカに移り住んだポーランド人だった。

ひょっとしたら外国人だったからこそ、そういう細部まで目配りがきいたのかもしれない。アメリカで働く外国移民にひとごととは思えない興味があったのかもしれない。映画の題名を筋に関係ない「チャイナタウン」にしたのもそのためだったのではないだろうか。













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