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僕らの世代(2) |
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2003年3月7日 |
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 | 中山 俊明 [なかやま としあき]
1946年4月23日生まれ。東京・大田区で育つが中2のとき、福岡県へ転校。70年春、九州大学を卒業後、共同通信に写真部員として入社。89年秋、異業種交流会「研究会インフォネット」を仲間とともに創設、世話人となる。91年春、共同通信を退社、株式会社インフォネットを設立。神奈川県・葉山町在住。 |
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▲ 逆さ影富士=富士山の後ろに沈む太陽のおかげで、山の影が雲に投影されるちょっと面白い現象 |
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JR中野駅北口のカフェ。 ひとりの写真家と向き合っている。無口である。こちらから話しかけない限り会話が進まない。話しかけて、相手は数秒考えて、それからおもむろにぽつりぽつりと返事がくる。こういう相手になると僕はふだん以上におしゃべりになる。沈黙の時間に耐えられないのだ。
「Oさんはどんな写真をお撮りになっているんですか?」 「・・・・・ネコ、ですね」 しばし沈黙。 「というと、スタジオで?」 「・・・・・いや、自宅の周辺にいる普通の・・・」 こちらをまっすぐ見てくれない。 「デジタルカメラはお使いですか」 「・・・私、デジタルでなければ写真が売れなくなったら、写真家廃業しようと思ってます」 「それはまたどうして。けっこうコンピュータにお詳しいじゃないですか」 しばし沈黙。そして両手をおもむろに宙にあげ、なにかを持つ手つきになった。
「・・・そろばんがありますね」 「はい?」 「・・・この、そろばんのタマでお金の計算をする、というところまでは理解できるんです」 「はあ」 「でもそのタマで映像を表現する、というのは許せない」 本質を突いている。1と0で成り立つデジタルはとうぜんながら数字処理にすぐれている。その数字で、かたちや色を表現しようとするものだからかなり無理が出る。 「なあるほど。おもしろい表現だなあ。よく分かりますよ。でもですよ、フィルムの銀塩画像も突きつめていくと、点の集まりじゃないですか。最終的にはアナログもデジタルも同じ点じゃないですか?」 「違いますっ」 彼らしくなく、突然きっとした表情になり、ここだけ断定的な物言いに変わった。
その晩、JR鎌倉駅に近い居酒屋「和民」。僕は5人の黒ネクタイ姿の男たちと話をしている。以前勤めていた通信社の同期生が突然なくなり、その通夜のあとだ。社の保養施設の温泉に深夜ひとりで浸かっていて脳溢血、2時間後に発見されたのだという。享年55歳。30数人の同期生でこれで4人がなくなった。ちとペースが早すぎる。
死んだ同期生に献杯し、しばらく彼の話が続いたあと、話題はいつの間にか最近の職場のことへ移っていく。ここでも「ITリテラシー」「ITデバイド」という言葉が飛びかう。ここにいるのはすべてかつての報道カメラマンだが、みないまは取材現場を離れ、コンピュータに囲まれた管理職や整理部門にいる。
「たかだか12年前だよ、当時の写真部長が『オレの目の黒いうちは職場にコンピュータを置かせない』と豪語していたのは」 「ほんとかよ。冗談じゃないぜ。いまじゃ、取材の90%がデジタルカメラ、パソコンを使えないカメラマンは現場に出そうにも出せない」 速報を要求される報道現場では、撮影即現場からのインターネット送信がごく当たり前になっているのだという。 「パソコン使えないカメラマンがいるのか?!」と僕。 「いるいる。個人としてフィルムにこだわるのはけっこう。でも会社全体の仕組がデジタルになってしまったのだから、パソコン出来ないやつを出来るやつがカバーしなくてはならない。ここが頭痛の種だ」
僕が昼間きいた「そろばん」の話を持ちだす。 「わかる、わかる」 みながいちようにうなずく。「頭痛の種」と言った男を僕がからかう。 「分かるなら、パソコンやらないというカメラマンの気持ちも分かるよな」 「分かる分からないは別だ。これは仕事だからっ」 かつての同僚はここできっぱりと言った。みな頭髪が薄くなったり、白くなっり、すっかり責任の重い「管理職」らしい顔になっている。
「このなかの誰が最初に通夜のあとの酒の肴にされるのかねえ」 この仲間たちも同じビルの中で働いていながら数ヶ月顔を会わせないことがあるそうだ。同期生の通夜でもなければ、かつての仲間たちが一同に会する機会もめったにない。
「でもこの6人のうちのだれかの通夜だったら、こんなに笑って馬鹿話する雰囲気じゃないよな」 「いいんじゃないの、笑ってさ。今晩だってあいつのおかげでさ、こうやって集まれたんだから」
デジタル革命のまっただなか。そのアナログとデジタルのはざまの最前線で悩むのが僕らの世代である。
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