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ぐちゃぐちゃ |
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2013年7月1日 |
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 | 西村 万里 [にしむら・まさと]
1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。 |
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▲ リンダのおじさんが第二次世界大戦中インドから持ち帰ったミニチュア絵画 |
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私は小学校に上がるか上がらないかというときに東京から名古屋に移った。2、3年して母は我々兄弟3人を連れて東京を訪れた。兄の元の担任の先生を小学校に訪ねたら、先生は皆にカレーライスをごちそうしてくださった。
こども達はカレーが大好きだ。我々は興奮していつもやるようにスプーンでカレーとご飯をまんべんなくかきまぜてから喜んで食べた。ふと母を見ると、母はカレーとご飯をまぜることなく、それらをすこしずつ等量にスプーンに入れて食べている。そして先生もそうやって食べているのだった。私はその時、大人はああやってカレーを食べるものなのだ、それがたしなみのある食べ方なのだ、ともちろんそんな言葉にはならなかったけれど漠然と感じた。それがいかに印象深かったか、50数年たった今でもそれを覚えていることで証明されるだろう。
それから幾星霜(いくせいそう)、サンディエゴで日本語を教えていた私は授業のためにとっていた日本の新聞で「中島らもの明るい悩み相談室」という記事をよく読んでいた。名前のとおり、深刻な身の上相談ではなく、読者のちょっとした悩みに答えるユーモアあふれる回答が売り物だった。軽い読み物として日本語の教材にぴったりだった。
その中に大意こういう相談があった。「私の彼はカレーライスでもスパゲティでも、まずぐちゃぐちゃにかきまぜてから食べます。以前からきたない食べ方だと思っていましたがいつかは矯正できるのではないかと願っていました。でもその癖はいっこうに改善する気配がなく、もうがまんの限界です。どうしたらいいでしょうか」
それに対するらもさんの回答はよくおぼえていないが、なんでも「チャーハンとか五目ごはんとか、最初からすべてが混ざっているものを食べさせてあげてはいかがでしょう」というものだった。なるほど考えたなあ。でも私はらもさんが相談者の悩みにまず同調して、「彼」の食べ方が「きたない」ということを前提として回答していることに驚いた。
らもさんの回答ではそもそも答えになっていないと思うけれど、「カレーやスパゲティをかきまぜて食べる」ことはいけないことなのだろうか。私の母がやっていたように、ご飯またはスパゲティとソースをすこしずつ両方をとるのが正しい食べ方なのだろうか。
これがもう20年以上前の話だ。ところが驚いたことにこの問題は今でも決着がついていないらしい。だけでなく、まぜて食べることを非難する人は必ずといっていいほど「ぐちゃぐちゃ」という言葉をつかうようだ。
「ぐちゃぐちゃ」といえばそれだけできびしい価値判断ですよね。せっかくきれいにつくってあるものを全面的に、徹底的に破壊する、という思い入れがある。
もしそうだとしたら、と私は考える。これは日本だけで通用する考えではなかろうか。
というのは海外で暮らしている私にしてみればカレーやスパゲティをまぜてから食べるのはあたりまえのことで、それ以外に食べ方といってあり得ない、と思っているからだ。
ひょっとしたららもさんもそう思っていたのかもしれないけれど、そんなことを言って相談者の悩みを否定してしまったら「明るい」悩み相談室にならないので、それで苦肉(くにく)の策としてあんな回答を出したのかもしれない。
こどもの時は母の食べ方に感じ入ったけれど、そして日本を出るまでは私もそんな食べ方をしていたように思うけれど、私が経験した範囲の外国では「ぐちゃぐちゃ」にして食べるのがふつうのようだ。
インドではカレーを手で食べる。カレーとご飯をまぜて、それを右手でつかんで食べる。そしてインドの人はこの食べ方をたいそう誇りにしていて、目や口だけでなく、てのひらでも料理を味わうことができる、というそうだ。
手を使うのではうちの母みたいな食べ方はできない。しかし、日本人にとってカレーは「インド料理」と意識されることがほとんどないから、インド人の食べ方は参考にならないのだろう。
香港でもよくカレーを食べた。本格的なインド料理も食べたけれど、もっと食べたのは現地で「星馬咖哩飯」(シンマー・カーリーファン)と呼ばれているカレーだった。星はシンガポールをさし、馬はマレーシアをさす。要するにマレーシアカレーだ。これはココナッツ・ミルクを濃厚に入れたカレーでインドのものとは味が全然ちがう。香港人はこれが大好きで、香港でカレーというとおおむねこのスタイルをさす。食べる時にはスプーンで食べる。
外国のものを比較的受け入れる広東料理にも「咖哩鶏飯」(カーリーカイファン)というチキンカレーがあるが、なんによらず中国料理に肩入れする私もこれだけはおすすめできない。カレー粉を使ったイミテーションで、本格派のカレーとくらべるとあきれるほど味が落ちる。これははしとれんげで食べる。
そういう海外のカレーはメリケン粉でとろみをつけないから、日本のスタンダードからいけばたいそう水っぽく、ご飯にかけるとすぐさま浸透してしまう。「ぐちゃぐちゃ」も何も、はじめからカレーとごはんをはっきりとわけることができない。だから日本流の「美しい」食べ方ができないのだ。
スパゲティにしてもコロンブスがアメリカ大陸を発見してトマトがヨーロッパに入ってくるまではバターと粉チーズで食べていた。ゆであげたスパゲティにバターをかければすぐとけて麺と一体になってしまう。ソースとスパゲティを分離することができない。その頃にはスパゲティは手づかみで食べられていた。
しかし考えてみると私が日本にいた頃のスパゲティはナポリタンがふつうで、これはスパゲティをケチャップでいためるものだった。だから料理が出て来た時にはすでにケチャップがまんべんなくスパゲティにからみついている。そういうスパゲティを食べていた日本人が、トマトソースを上にかけるようになったからといって急に変節して「ぐちゃぐちゃにまぜてはいけない」と言い出すようになったのには納得がいかない。
はじめからすべて混ざっている炊き込みご飯のようなものには寛容な日本人はなぜかソースとご飯がわかれているものには違和感があるようだ。
察するところ、「ぐちゃぐちゃ」にしてしまうと皿にソースが残ってきたなく見える、というのが日本人の心の奥深くにある異議ではないだろうか。
しかしカレーにしてもスパゲティにしても日本の外ではパンがつく。カレーの場合は「ナン」、スパゲティの場合は「ガーリック・ブレッド」だ。もし皿にソースが残って見場が悪いということになってもこれらのパンでぬぐうように食べればお皿をきれいにできる。
この「パンでソースをぬぐい皿をきれいにする」ということは昔日本にはなかった習慣だ。ということがわかるのは戦前にフランスに留学した宮崎市定という東洋史の先生が、そのころの思い出としてフランス人がパンで皿をぬぐうことを書いているからだ。「ある婦人はそうやって食べた後、『ね、ピッカピカ』と自慢しながら皿を見せた」そうだ。そう書いているのは宮崎先生がふだん日本で洋食を食べる時にそんなことをしたことがなかったからに違いない。
ソースが大事なのでもったいないということと、それを食べ残すのは作った人にたいして失礼にあたる、ということからフランス人はそうするのじゃないかと私は思う。
村上春樹は小説の中で「皿に残ったソースはパンでぬぐってきれいに食べた」と書いたことがある。こういう細部が描写されるとそれがトレンドになって実際にまねされる。日本でそれをする人が多くなっているならば、いくぶんかは村上さんの小説の効果だと思う。
私は思うのだが、食事に関して日本人が「きたない」と思う事柄には矛盾が多い。
たとえばインド人が手でカレーライスをにぎって食べるのはなんとなく「きたない」と思う人が多い。でも欧米人はテーブルクロスなどないテーブルに置いてあるパンを別に気にすることなく手でちぎって食べる。日本人は「おしぼり」などなくてもすしを手でつまんで食べる。おにぎりを手で食べる。
アメリカでバーベキューといって牛や豚の肋骨のところを食べる時にはナイフもフォークも使えない。ソースまみれになるのを覚悟で骨付きの肉を手にするほかはない。
また洋の東西を問わず、殻つきのえびやかにを食べる時は外聞もなにもあったものじゃない。手でつかんで殻をむきつつ食べなければならない。
逆の面から見てみよう。アメリカに来てからのことだけれど、ある中国人のうちに食事によばれた。食事の前に酒のつまみとしてピーナツが出たのだが、そこの主人ははしでピーナツをひと粒ひと粒つまんで食べていた。ほかにもはしで食べなければならないものがあったから、という事情はあったものの、日本人の感覚からすればこれはいかにも行き過ぎではないか。でも、ピーナツぐらい手でつまんで食べればいいじゃないか、と思う日本人が「カレーはぜひともスプーンで」という資格があるだろうか。中国人から見たら五十歩百歩、なんじゃないでしょうか。
わりばしというものは日本人の発明だ。なぜあんなものができたかというと、「他人が使ったはしを使いたくない」からだ。それは衛生の問題というより「自分のもの」「他人のもの」をはっきりわけなければ気がすまない、というメンタリティの結果だろう。だから日本人は「箸箱」を使う(あるいは昔使っていた)。これに入れておけば自他の区別ははっきりする。
そこまでこだわる日本人がレストランでだれが使ったともわからないナイフやフォークを使う。自宅には「ナイフ箱」も「フォーク箱」もない。
きれいに洗ってあるから衛生的だ、というのはいいわけにならない。使い捨てのプラスチックのナイフやフォークがあるご時世だ。それを使えば日本人の好みに合うかと思いきや、高級な店になるほど金属製の食器に固執する。 広東料理に「免治飯(ミンチーファン。免治=ミンチ肉)」というのがある。これはいわば中国のどんぶり物で皿の飯にいためたひき肉や野菜がのせてあって、さらにその上にフライド・エッグがのっているというものだ。「ビビンバ」の中国版といっていいと思う。しかしどんぶりに入っていないので、私は最初それをかきまぜないで日本流に食べていた。 食堂のおかみが見かねて、「こうやって食べるんだ」と箸で半熟状のたまごをつきくずし、全部をかきまぜてさあ食べろと差し出した。
ここが大事なところで、どんぶりに入っているかぎり、「ぐちゃぐちゃにする」という非難はあたらないらしい。「カレーうどん」「カレーどんぶり」の食べ方をとやかくいう人はいない。うな丼や天丼でつゆとご飯を等分に、なんていう人はいない。「ビビンバ」はかきまぜて食べる。あれを盛りつけをくずさずに食べる人はいないだろう。しかし同じものが皿にのってでてくるとなんとなく「美しく」食べなければならないように思ってしまう。「冷やし中華」なんか日本でできた料理だと思うけれど、あれも皿にのっていると「ぐちゃぐちゃ」にしないように食べる人はけっこう多いのではないだろうか。
日本料理だけ食べていた江戸時代の人はこんな矛盾になやまされることはなかったにちがいない。カレーが日本に入っておよそ140年、いまだに食べ方で議論が絶えないのは日本人の食べ物に関する考え方が不幸にして「ぐちゃぐちゃ」になっているからではないだろうか。
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