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縁の下のバイオリン弾き
35 パトリシア・ハイスミス
2011年11月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ パトリシア・ハイスミス
私と同年輩の人ならルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(1960年)という映画をおぼえているだろう。アラン・ドロンの出世作だ。友人を殺してその財産と恋人をうばう詐欺師を演じて鮮烈な印象を残した。

この映画の原作小説「リプリー」を書いたのがパトリシア・ハイスミス(1921-1995)というアメリカの女性作家だ。主人公のトム・リプリーは貧しいアメリカ青年で、ある富豪に頼まれてイタリアにいる道楽息子を帰国させる仕事をうけおう。うまく息子に接近し、ヨットで地中海をへめぐっている間にこのプレイボーイを殺し、彼になりすます、というのが筋だ。

つまりもともとはアメリカ人がアメリカ人のために書いたアメリカ人同士の話であって、フランス映画になるはずのものではなかった。そのため1999年にマット・デイモン主演で再映画化されているけれど、とても「太陽がいっぱい」にはかなわない。なぜかというとリメークは犯罪の話なのにフランス映画のほうは青春を主題にしているからだ。この映画を見ると青春のあせりと飢餓感に胸がしめつけられるような気になる。

ハイスミスはこの後もリプリーを主人公にした小説を何作も書いている。いずれもトム・リプリーの良心の呵責を全く感じない冷血漢ぶりをあますところなく描いている。悪の人物像にはことかかない世界の文学の中でもリプリーはちょっと独特だ。そういう「タイプ」を創造したという点でハイスミスはもっと評価されていい作家だと思う。

彼女は推理小説作家だと一般に思われている。彼女の書くものが大部分犯罪を主題にしているからそれも無理はないけれど、本人はべつに推理小説を書いているつもりはなかった。人間の本性を描くのにたまたま犯罪が一番適当だった、という事だった。

テキサス生まれだが、生涯の大部分をヨーロッパですごした。フランスに長く暮らし、スイスでなくなった。彼女の書くものもアメリカよりはヨーロッパではるかによく読まれた。ハイスミスはアメリカが嫌いだったらしい。

どうしてそうなのかはわからないけれど、その理由の一つとして考えられるのは彼女が同性愛者だったということだ。

アメリカでは宗教的な理由から同性愛を糾弾、弾圧する傾向が強い。ヨーロッパよりも強いのだ。

日本ではゲイに対する偏見は根強いかもしれないが、命にかかわることはまずないだろう。アメリカでは同性愛者をゲイであるというだけで殺すという事件がしばしば起こる。1998年にワイオミング州で起ったマシュー・シェパード事件は特に有名だ。21歳の大学生だったシェパードが二人の若者にゲイであるために標的にされ、暴力をふるわれたあげく雪の中、野原の柵にしばりつけられてなくなった。この事件は類似の事件が多いアメリカにもショックを与え、同性愛者に対するいわゆる「憎悪犯罪」の撲滅(ぼくめつ)を目的とする法律を成立させた。

シェパードは男だったが、女だったら救われたかというとそんなことはない。1993年にネブラスカ州でティーナ・ブランドンという21歳の女性が殺された。彼女は身体的には女だったが、性自認は男だった。名前もブランドン・ティーナという男名前に変え、服装から行動様式まで男で通した。それがあばかれた時それまで友人だった若者二人にレイプされ、銃で撃たれた。彼女の話は「ボーイズ・ドント・クライ」という映画になった(1999年)。

今でさえそんな有様だ。パトリシア・ハイスミスが育った30年代のアメリカの同性愛に対する偏見と憎悪は想像にあまりある。

彼女は1952年に女同士の恋愛を描いた小説を出版した。筆名を使っていたがそれがどんなに勇気のいったことか。同性愛者の権利獲得をめざした運動がはじまるずっと前の話だ。

そういうアメリカを離れ、同性愛にもっと寛容なヨーロッパに移り住んだのだったら理解できることだ。

アメリカでは同性愛者の運動は黒人が推し進めたのと同じような公民権運動の一種と見なされている。つまり「われわれを他のアメリカ人と同じように平等にあつかってほしい」という要求だ。

特別扱いをしてほしいのじゃない、平等にしてもらえさえすればいい。その象徴が「結婚の自由」と「公然と軍隊に入る自由」だ。もちろんこのふたつが彼らを「平等にあつかう」ためには最大の障害だからだ。

結婚は「男と女の間のこと」というのが社会通念だから、「同性結婚」などということはその概念すら最近までなかった。昔は同性愛そのものがりっぱな法律上の犯罪だったのだから結婚などはとんでもないことだった。

さきごろ行われた10年に一度の全米人口調査で同性のパートナーがいると答えたカップルは65万組と、10年前の2倍になった。同性結婚はアメリカ全土ではまだ認められていないが州によっては認められている。2004年にマサチューセッツ州ではじめて同性結婚が認められ、現在コネチカット、バーモント、ニューハンプシャー、ニューヨーク、アイオワの6州と首都ワシントンで合法だ。その数はおよそ10万組だそうだ。

ゲイのカップルが全米で一番多いカリフォルニアでは裁判所の判断で2008年6月に合法になったものの、住民投票の結果同年11月にそれがくつがえされてしまった。その5ヶ月間に同性結婚したものは夫婦と認められるがそれ以後は違法だという異常な状況になっている。それを見ても「同性結婚」に対する社会の拒否反応がまだまだ根強い事がわかる。

「公然と軍隊に入る自由」の方は今年(2011年)になってついに実現した。9月にアメリカ軍内部で同性愛者であることを隠さなくてはならないということを意味する「不問不答の原則」が撤廃された。この原則はクリントン政権時代に確立されたもので、その廃止までに18年かかった。

徴兵制度がなくなって志願者のみで構成される現在のアメリカ軍は兵隊がのどから手が出るほど欲しい。しかし同性愛者をおおっぴらに受け入れては軍自体が崩壊すると考えられた。そのため苦肉の策として採用された原則だ。同性愛者を軍隊は受け入れるけれど、本人はそのことを誰にも打ち明けてはならない、また軍もそれについて問うことはしない、というものだ。アメリカでは女も軍に入るから、この原則は男女を問わず適用された。

軍隊内部では鉄の結束が望ましいのに同性愛者は敵よりも憎まれる、そんなことで戦争はできない、というのが軍の公式見解だった。だが黙っている限りは問題ない。要するに「見て見ぬふり」で、断るまでもなくこれは偽善だ。軍はなりふりかまわずその矛盾を強行していたのだが、世論が70%以上容認に傾いたのを無視できなくなったのだ。

以前テレビのトークショーでこの問題が話し合われているのを見たことがある。マッチョなストレート(異性愛者)の兵士が「軍隊では集団生活をするのに戦友に惚れられたりしたらたまらない」といって「しょってるねえ。どうしてあんたがそんなに好かれると思うの」とゲイの兵士にからかわれていた。

18年たって「不問不答の原則」がなくなったあと、軍隊の中で問題が起ったかというと全然起らなかった。撤廃以前は陰湿な中傷や暴力が絶えなかったのだ。今や隠す必要はなくなったというので勇気を出して上官に告白しても肩をすくめられるのが関の山だったそうだ。「分かっちゃいたんだが、なにしろあの原則があったものだからねえ。はっきり聞くわけにもいかないじゃないか」といわれた人もいる。

しかしパトリシア・ハイスミスは生涯同性愛者の運動に冷淡だった。徹底した個人主義者だったからみんなと一緒になってする市民運動などには興味を持たなかったのだろうと思う。それに時代のせいで同性愛者に対する偏見を打破する事は無理だと思っていた可能性もある。あるいはまた同性愛者としての自覚を深めれば結婚や軍隊にこだわるほうが間違っている、と信じていたのかもしれない。

彼女がどう思っていたのか正確なところは分からない。しかし私は彼女なら言いそうな事だと感じるコメントを意外な人の口から聞いた、というか読んだ。

その人はフィリップ・ロス(1933-)。近い将来アメリカがノーベル文学賞の受賞者を出すとすればまず第一番に候補にあがるだろう作家だ。

こちらはかくれもない、というか度はずれた異性愛者だ。女優のクレア・ブルームと結婚していたが浮気がやまないのでついに離婚されたという男だ。

彼の作品もいくつも映画になっている。ベン・キングスリーとペネロペ・クルスが主演した「エレジー」(2008年)という映画はロスの「ダイング・アニマル」(2001年)という小説が原作だ。

その小説の中でロスは同性愛者の運動をこのように批判している。

「結婚も軍隊も人間をとじこめる檻(おり)だ。だからいったんその中に入った奴らは涙ぐましい努力をしてそこから逃げだそうと必死になっているじゃないか。 ゲイははじめからその二つの制度からのけものになっている。これこそもっけの幸いというものだ。それなのにどうして大切な自由を自分から放棄してまでその中に入りたいなんていうのだ」と。

「自由」に最高の価値をおくフィリップ・ロスらしい意見だ。彼はユダヤ系で自身が差別を受ける側であり、そのユダヤ性をしばしば小説の主題としているから同性愛者に偏見を持っているとは思われない。

ロスにいわせれば「結婚する自由」「軍隊に入る自由」などはそもそも自由でも何でもなく、単にみんなと同じになりたい横ならび願望だ、ということになる。

結婚はともかく、軍隊についてはこれは一理ある。軍隊の外にいてこそ自由でいられるのだ。「軍隊に入る自由」を行使したが最後、自由はなくなってしまう。民主的な軍隊というものがないのを見てもそれはわかる。

でも「横ならび願望」が悪いということはだれにもできないだろう。また彼は運動の他の側面を無視している。

軍隊は愛国心からだけ志願するものだとは限らない。ある年月軍隊に勤務すれば学費の免除や技術の習得や年金などの恩恵がある。経済的に恵まれない階層には好むと好まざるとにかかわらず立派な就職口なのだ(そのためアメリカの軍隊はマイノリティーの比率が一般社会より大きい)。その扉がとじられてしまったら死活問題になりかねない。

隠すのをいさぎよしとしなかった同性愛の軍人たちは除隊に追い込まれた。「国を守る」気概で入隊した若者がその存在理由をとりあげられるのだ。それも「男らしくない」という理由で。それが精神病や犯罪や自殺につながった。

同性愛者が結婚できないということは何十年一緒に暮らしても財産の共有、健康保険の適用、遺産の相続などができない、ということだ。ひどい時には映画「シングルマン」(2009年)で描かれたように最愛のパートナーに死なれてもその人の家族に拒まれて葬式にすら出席できないなどということにもなる。人権問題ではないか、というのが運動をになう人々の主張だ。

愛し合った人間同士が一緒に暮らすのに法律はなぜ差別をするのか。社会の伝統や習慣は変えていけばいいではないか。

パトリシア・ハイスミスはよくも悪くもそういう考え方をする女ではなかった。 誰にも頼らず、筆一本で生活を打ち立て、自分に冷たい故国を敢然と見捨てた。 猫が好きで(なんとなくわかる気がする)酒を愛した(ますますわかる気がする)。晩年まで恋人に不自由することはなかったが、一人の相手とそいとげるということはしなかった。同性結婚なんてたとえ合法になってもまっぴらだと思っていたのかもしれない。

作家や詩人を支援する財団に著作権を含む全財産を寄付するよう遺言してなくなった。
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