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62 コタン小路
2007年3月16日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。


コタン小路 (Passage de Cottin)

所用が立て込みまして、1ヶ月以上もご無沙汰してしまいました。申し訳ありませんでした。ちょっとばかり、時間不足の状況が好転してきましたので、少しずつですが、投稿を再開させていただきます。それではまず、絵画に関するテーマから始めさせていただきましょうか。

パリのモンマルトルを中心に活躍した画家はたくさんおりますが、名前を残した画家で、モンマルトルの風景を最も数多く描いたのは、やはりモーリス・ユトリロ (Maurice Utrillo 1883 〜 1955) だと思います。酒代を得るために、モンマルトルのほぼすべての小路と言ってよいほどの風景画を残した画家です。

上段の絵は、ユトリロの代表作のひとつで、コタン小路 (Passage de Cottin) と言います。

彼の絵のほとんどには人影はなく、キャンバスの中の風景は、静寂そのものです。この絵のように、人影がある場合でも、遠方の後ろ姿です。アルコール中毒者の絵とは思えないくらい端正なものが大半なのです。でもその端正な彼の絵からは、アルコールで紛らすことのできない悲嘆の色がにじみ出てきているようにも思えます。

ユトリロはマザコンでした。彼の母は、かなりの猛女といってよい、シュザンヌ・ヴァラドンという女性です。実は彼女自身も、女流画家として絵画史に名を残した人でした。当時は女性が画家になることは、ほとんど不可能に近いくらいたいへんなことだったはずです。しかも、彼女の場合、貧しい階層の出身で父親がいなかったのですから、その才能と努力は、けたはずれのものであったろうことは、容易に想像がつきます。

では、ユトリロの父は誰か? ということについては、諸説があり、今でも不明ということになっています。候補として名前が挙がっているのは、ルノワール、ロートレック、ドガ、シャバンヌ(画家)、ボワシー(詩人)、それに後にユトリロを認知したジャーナリストのミゲール・ユトリロなどです。

この母は、その時々で違う名前を挙げ続けたので、息子のユトリロですら、本当のことを知ることはなかったといいます。父親がいないことより、父が誰か分からないことの方が、彼を苦しめたのかもしれません。

18才でアル中の治療のため精神病院に入ったとき、作業療法として医師と母に勧められて、絵を描くことを始めたのが、ユトリロと絵の関わり合いの始まりです。彼はモンマルトルの界隈を歩き回りながら、母親がそうしたように、パリの路地裏から絵を学んでいきました。

同じモンマルトルを描いた絵でも、たとえばルノワールは、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 (下段の絵です)のように、光輝に満ちたみずみずしい絵を描き、その息子かもしれない(?)ユトリロは、ルノワールが印象派の頂点を極めた後も、ついに描くことはなかった、人生のもうひとつの側面を、アルコール中毒に震える指先で描き出したのです。

サクレクール寺院の東側のすぐ足元と言ってもよい場所にコタン小路はあります。ユトリロは1911年頃に、このコタン小路を描きました。今からもう15年近く前のことになりますが、私もこの絵の写真を持ってその現場に出かけたことがありました。夏の終わりの頃でした。

ガス灯がなくなっていたり、当時はなかった自動車が駐車していたり、もちろん時の流れで変化したものもありましたが、全体の構図は、驚くほどそっくりそのままでした。アパートの白壁に漂うひっそりとした気配までそっくりでした。モンマルトルの観光地区を、ちょっとはずれるだけですので、もし行かれることがありましたら、訪ねてみることをお薦めします。もちろんこの絵を持って。 決して清潔でも、上品でもない街ですが、坂道のひとつひとつ、街角のひとつひとつに、人のいろいろな思いを感じる街です。お出かけの時には、スリには注意して、お楽しみくださいね。

この地域は、景観保存地区の指定を受けていますので、建物ひとつひとつの外観を19世紀末の姿に保たなければならないのです。かなり細かな規則が決められていると聞きました。住む人達にとっては、不便なこともあるでしょうが、私のような人間にとっては本当にありがたいことです。もしユトリロがこの丘に今戻ってきてコタン小路や、同じくモンマルトルにある酒場のラパン・アジルなど当時の外観そっくりの街の風景を見たらなんて言うでしょうか?

モーリス・ユトリロ (Maurice Utrillo) は、1883年生まれで、亡くなったのは1955年ですから、72歳の生涯であったわけで、不摂生とアル中でも、このくらいは生きるというある種のサンプルのような人生を送りました。彼の絵から特に強く受ける印象は、

1) 画面全体がなにかの悲哀に満ちている
2) 街の音が全然聞こえてこない
3) 街にいるはずの人や雑踏の存在を感じない

といったところです。上の絵、コタン小路を描いたのは、彼が20歳代後半で、アル中のさなかに居た時期でした。実は彼はその後、母の命令で年上のしっかり者の女性と結婚し、晩年は平穏な生活を送ったのですが、彼の作品で評価が高いのは、皮肉なことに、その平穏な時期の絵ではなくて、アルコールにどっぷりつかりながらも、どうしても消すことのできなかった悲嘆や寂しさをあふれさせていた、いわば「アル中時代」の絵なのです。

晩年、生活が安定し、名前も売れてからの絵は、私見ですが心を打つ何かが欠けています。モネが晩年、白内障で視力を失いながらも、執念で睡蓮の大作を描いたり、ルノワールがリューマチで動かなくなった指に絵筆をくくりつけてまで豊満な裸婦像を描いたような、そんなアーティストの気迫は見あたりません。きっと妻に言われて、自分の昔の絵を模写したのではないか、と思えるような絵も多くあります。

画家の芸術的なエネルギーが、どのような条件で最もよく湧き出てくるのかは、一概には言えないことですね。コタン小路、多くのユトリロの作品の中でも、私が好きな1枚です。


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