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縁の下のバイオリン弾き
41 イニシャルについて
2012年2月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ 葉山から富士山をのぞむ

伊集院静の「なぎさホテル」という本を読んだ。そのホテルに滞在していた若い頃の自分を描いた自伝的な作品だ。

その本を読んで最も印象に残った事は作品のよしあしとは関係のない事だった。

作者は自分の名前を、本名、作詞家としての筆名、小説家としての筆名と三通りも出しているのに、そのほかの登場人物はすべてI支配人とか、Y女史とか、Fさんとかイニシャルにしているのだった。

登場人物をイニシャルであらわす、というのは文学ではしばしば用いられる技巧だ。まっさきに頭に浮かぶのはカフカだろう。

けれど、どこのだれともしれない人物を時代も場所も特定せずに描くのならいざ知らず、実在のホテルを舞台にした作品で自分の青春を描くのに登場人物をイニシャルであらわす必要があるのだろうか。

もちろんプライバシーを守る、というのが理由だとすれば理解できる。でもそれなら勝手に名前をこしらえればいい。イニシャルが本名にもとづいているとするなら(だからイニシャルを使うのだろうから)逆にプライバシーを守りきれない、ということにもなりかねない。作家によっては NHさん、YKさんなんて書き方をする人がいる。これでは逆効果ではないだろうか。

「名は体を表す」ということばがある。名前があって人ははじめて個人としての存在を認められる。名前がないということは人間としての尊厳を失う事だ。十把ひとからげにアルファベットにされたら血も肉もある人間として小説の中でいきいきと動けるはずがない。

読む方だって名前があるから感情移入できるのだ。現にたいていの小説には架空の名前を持った人物が登場し、読者はそれを受け入れる。「何だこのうそくさい名前は」などとは思わない。

夏目漱石の「坊ちゃん」に、あることないこと新聞に書かれた主人公が憤慨する場面がある。明治時代にはイニシャルを使う習慣はまだなかったけれど、そのかわり名前を書きたくなければ「某(ぼう)」と書くならわしがあった。なんとかさん、という意味だ。自分の事をそう書かれて「坊ちゃん」は言う。

「近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下に某という名前の人があるか。考えても見ろ。これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。系図が見たけりゃ、多田満仲(ただのまんじゅう)以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ」

この胸のすく啖呵(たんか)は名前を奪われた無名の人々の怒りをよくあらわしている。「一寸の虫にも五分の魂」だ。

伊集院静は若くして死んだ女優の夏目雅子と結婚していた。それは世間周知のことなのに、かれは本の中で雅子とは書かず、M子としている。

まあ、そりゃそうだろうな、と思う。もし雅子と本名で書こうものなら、作者にとって大事なのはこの雅子ひとり、イニシャルで出てくる人物たちはどうでもいいその他大勢なのだ、ということが分かってしまう。

だからイニシャルを使う、と決めたらふつうの人名は出さないほうがいい。その二つを混ぜるのは結果として人を差別することになるからだ。

しかし夏目雅子のような有名人をM子と書く不自然さはいうまでもあるまい。雅子と書けばおのずと目に浮かんでくるその人を無機質のM子にしてそれで何がつたわるのだろうか。何をつたえようとしているのだろうか。

===

イニシャルというものがいつごろから日本で使われるようになったのか私は知らない。名前を書かずに誰かのことを書く、という時に便利だから上のような使い方ができた。そのほかには、外国人の名前を日本語で書くと長くなるのでそれを略す、というのが一般的な使い方ではなかろうか。ジョージ・クルーニーを G.クルーニー、ブラッド・ピットを B.ピットと書くという具合だ(もっともピットの場合はブラピというのがふつうなんだろうけれど)。

しかし名前というものは他人が勝手にいじくっていいものではない。日本でのイニシャルの使い方はその点で英語圏とはちょっと違うと思う。少なくともアメリカでは大勢の人名のリストを作るときのほか、紙面の関係でファースト・ネームをイニシャルにすることはない。なぜかというとB. Pittと書いてもそういうイニシャルと姓の人はたくさんいる可能性が大きいからだ。

ジョージ・バーナード・ショウというアイルランドの劇作家は自分の名前はGeorge Bernard ShawからG.B.S.にいたるまでいく通りもの書き方ができるといって喜んだ人だけれど、それは自分が使う、ということが前提になっている。 他人にはやはりジョージ・バーナード・ショウと全部書いてもらいたかっただろう。日本人が面倒くさいからといって「G.B.ショウ」などと許可もなく勝手に書いていることを知ったら毒舌家のことだから皮肉のひとつも言ったにちがいない。

アメリカの大統領はJFK(ケネディ)LBJ(ジョンソン)などと書かれる事があるけれど、それはあだ名みたいなもので、イニシャルの使い方は本人の意向がものをいう。名前は先にも書いたように個人の尊厳のあらわれだからその人が決めるのが当然なのだ。

英国19世紀の画家にジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーという人がいる。長い名前だ。でも画家のターナーのことを書こうと思ったらこの全部を書かなければならない。やむを得ずイニシャルを使うときでもJ.M.W.Turner と書く。

それを勝手にジョゼフ・ターナーや J.ターナーにしてはならない。なぜならジョゼフ・ターナーなんて名前はどこにでもころがっているからだ。

ターナーより半世紀あとのアメリカの画家にジェームズ・ホイッスラーという人がいる。アメリカ人といっても成人後の生涯のほとんどをロンドンで過ごしたからもうイギリス人といってよいかと思うが、この人は正式の名前をジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーという。ターナーに負けない長い名前だ。でもたいていはジェームズ・ホイッスラーで通っている。本人が名前の全部を書く事にこだわらなかったからだろう。

エドワード・G・ロビンソンとか F・マレー・アブラハム(いずれも映画俳優)のGやFはだてについているのではない。それはその人の個性の一部だ。単なる略称ではないのだ。

また、イニシャルではないけれど愛称としての名前がある。アメリカの大統領のジミー・カーターやビル・クリントンの本名はそれぞれジェームズ、ウィリアムだ。しかし本人が愛称でいきたい、と決めたらジミーやビル以外の名前ではあり得ない。ビル・クリントンの正式の名前はウィリアム・ジェファーソン・クリントンだが、だれもウィリアム・J・クリントンともW・J・クリントンとも書かない。世界に知られたビル・クリントンという名前はもうブランドなのだ。

===

英語では2語にわたる名前をイニシャルにしてそれを通称とすることがよくある。たとえば私の知人にC.J.ハッチンスという人がいる。だれもが彼を「シージェイ」と呼んでいる。私はそのC.J.が何の略なのか知らない。チャールス・ジョゼフかもしれないしカーティス・ジャクソンなのかもしれない。でも本人がC.J.と呼んでほしいと決めた以上、ほかの呼び方はないのだ。

私が子どものころ「ローハイド」というテレビ番組があった。そうです、あの「ローレン、ローレン、ローレン」ではじまる主題歌、おぼえてるでしょう。

テキサスの牧場からカンサスのウイチタまで何千頭という牛を追って行くカウボーイたちの話だ。これをキャトル・ドライブという。なぜこんな事をするかというと、ウイチタまでは鉄道ができているので、そこから牛肉を必要とする東部に牛を輸送することができる、しかしウイチタまでは大草原を牛を追って旅しなければならない、ということなのだ。

キャトル・ドライブにはカウボーイたちの食事をつくるコックが必ずいる。「ローハイド」のコックはふだんみんなから「おっさん」と呼ばれているが、G.W.ウィッシュボンという名前の老人だ。

ある夜、キャンプ・ファイアのそばで話に興じていたカウボーイのひとりがおっさんに話しかける。「おっさん、G.W.ってのは何の略だい?」

おっさんは昂然と顔をあげて言ったものだ。「ジョージ・ワシントンさ」

===

アガサ・クリスティのポワロものに「オリエント急行の殺人」という作品がある。アルバート・フィニーが主演した映画がすばらしかった。トルコのイスタンブールからフランスに向かうオリエント急行列車内で殺人がおきる。犯人は乗客の中にいるに違いないのだが、乗り合わせたポワロが頼まれて一人一人を調べていくとそのだれもがなにやらあやしい、という話だ。

重要証拠物件として現場に落ちていたイニシャル入りのハンカチが提出される。このイニシャル、Hに該当する乗客は何人もいる。それで調査は難航するのだけど、最後にポワロから事情調査されたロシアの老公爵夫人が「これは私のハンカチです。このイニシャルはHではありません。ロシア文字のNなのです」という。彼女の名前はナターリャだった。

ロシアのキリル文字ではNがHのように書かれる。そんなことをいわれてもわれわれ日本人はぽかんとするほかはない。でも本の出版当時これを読んだイギリスの読者はあざやかなすくい投げにうなったのではないかと思われる。

イニシャルというものはどうとでも読まれるものだという事実をこの話は示している。それは名前であるようなないようなあやふやなものだ。そういうものを使って文章を構築しようとしても、土台があやしいのだから建築物もぐらぐらしてしまう、と私は思う。

(追記) 趣旨に変わりはないので「坊ちゃん」からの引用は新かなづかいに直しました。
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