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無信仰者のクリスマス |
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2006年12月28日 |
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 | 雨宮 和子 [あめみや かずこ]
1947年、東京都生まれ。だが、子どものときからあちこちに移動して、故郷なるものがない。1971年から1年3ヶ月を東南アジアで過ごした後、カリフォルニアに移住し、現在に至る。ボリビアへの沖縄移民について調べたり書いたりしているが、配偶者のアボカド農園経営も手伝う何でも屋。家族は、配偶者、犬1匹、猫1匹、オウム1羽。 |
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▲ 相も変わらず咲き続けてくれる我が家のブーゲンビリア。色鮮やかなのは実は葉っぱで、真ん中の小さな白いのが花。 |
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▲ 2人の友だちと作ったクッキー。 |
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ホンジュラス報告の続きを掲載するつもりでしたが、ふと、気を変えて、マインさんのように今年を振り返ってみたくなりました。それで、ホンジュラス報告の続きは来年に持ち越させていただいて、2006年の締めくくりとして、日頃考えていることを思うままに書くことにしました。
クリスマスが近づくと、2人の友人といっしょにクッキーを毎年どっさり焼くのが恒例になっています。かれこれ20年以上も続けていることなのです。私は料理は大好きなのですが、お菓子を焼くのは苦手で、彼女たちがいなかったらクッキーなんて年に1度も焼かないでしょう。それでもクッキー・デーと呼ぶようになったこの日は楽しいんです。手作りのクッキーの方がお店で買うのよりおいしいのはもちろんなのですが、それよりも、3人いっしょにおしゃべりしながら、何時間もかけてものを作り上げていくということに意味があるのですね。その夜は男性陣もやって来て、簡単でも楽しい夕食をみんなでいっしょにします。家族同様に親しい仲でも、必ず集まって食事をするというのは、このクッキー・デーぐらいでしょうか。
クリスマスの当日は、家族や親類から遠く離れている友人たちを招いて、ローストした七面鳥の正餐をしています。チャルマーズ・ジョンソンご夫妻もいつも誘うのですが、彼らは七面鳥が嫌いだと言って、絶対に来たがりません。(別の日に他の料理だと大喜びで来るのですが。)それで、焼いたクッキーのお裾分けをクリスマスの前日にジョンソンさんの家に持って行きました。
ズバリとものを言うことで有名なジョンソンさんは、クリスマスというクリスチャンのお祭り騒ぎが大嫌いなのだと言いました。 「あら、それならクリスマス・クッキーはいらないの?」と、私も負けてはいません。 「いやいや、クッキーはありがたくいただいておくよ」と、ジョンソンさんはクッキーを載せたお皿から手を離しませんでしたが、皮肉たっぷりな目つきで私を見て、「君は宗教に熱心なんだね」と、呆れたような口調で言ったものです。 「とんでもない。私にとってクリスマスは宗教とは全然関係ありませんよ」と、私はまじめに反論しました。
宗教に熱心だったら、いや、まじめに考えているのだったら、クリスチャンではない私がクリスマスの際にお祝いの正餐をするなんて、かえってできないでしょう。宗教に不真面目な私は、みんなで集まって食事を共にして心を繋ぐということに意味を感じるのであって、そのためならクリスマスでなくってもいいんです。お釈迦様のお誕生日でも、モハメドが予言を告げた日でも、無神論者のお祭りの日でも。みんながその日に納得して集まって、「生きているというのはいいものだね」と、再確認できるような気持ちになれば。
物理的にいっしょに集まることができない人には、「あなたのことを想っていますよ」というしるしに、カードを送る。接触があるのは年に1度カードの交換だけというような友人や知人もいるけれど、それでもそうやって繋がっていることはうれしいですね。だから私も一生懸命に出します。
近くにいても、また主義主張ではなく、恥ずかしくて正餐に来ないと言う人もいます。ホームレスのニックさんです。彼には2年前のクリスマスから食事を持って行くようになりました。(ニックさんのことは、「(34)番外編:クリスマス・ディナー」で触れました。)今年も感謝祭とクリスマスに七面鳥やマッシュポテトの食事のお裾分けを持って行ったのですが、当日はレストランの食べ物の残り物をもらったとかで、私が持って行った食事は翌日に友だちと半分っこして食べたそうです。ホームレスのニックさんも、そうやって友人と分かち合っているのです。私が持って行った食事を喜んでくれたのは、食べ物そのものがうれしかったのではなくて、彼のことを忘れずにいる私の心を受け止めてくれたからでしょう。
2年前は、妻か娘が助けにきてくれるのを待っていると盛んに言っていたニックさんですが、いまはもうそんなことは言わなくなりました。ただずっと待っているだけというのはもう止めて、彼なりに自分の人生を意味を見つけ出しているように感じられます。感謝祭の後、自分が書いたものを読んでもらいたいと、ずっしり分厚い紙の積み重ねの中から何ページか選んで、私に手渡しました。そこに彼が書いたことは抽象的で、宗教的臭くもあるのですが、ニックさんが心の中に平和を掴みつつあるのが感じられました。いいえ、自分の書いたものを私に見せてくれたのが、私には一番うれしかった。これで、ニックさんと私との関係は人間同士として平等になったという感じがしました。
感謝祭やクリスマスの正餐は、そういうことを可能にする契機なのだとも思います。お祭りというのは、そうやって赤の他人を繋ぎ合わせるものなのではないでしょうか。商業ベースに載せられるのはいやだけれど、載らずに高価な買い物などしなければいいんです。
トーマスと私は、新年をメキシコで迎えることが何度もありました。プロテスタントではあっても教会には属していない彼も、全くの無宗教の私も、メキシコでの大晦日の夜は教会のミサに出かける気分になってしまうのですから、不思議なものです。さすがにクリスマスに教会へ行きたいとは思いませんが。
ミサで神父さんが言っていることは全然わかりませんが、私は周りの人たちがやることをただ真似て立ったり座ったり、そうやってミサに参加するのです。メキシコ人の気質も影響しているのでしょうか、教会では通りがかりの外国人も、何も問わずに受け入れてくれます。ミサの最後に、前後左右すべて周りの全く見知らぬ人と、「フェリス・アニョヌエボ」(Feliz Nuevo Ano = 新年おめでとう)と言って握手する。それがとっても好きですねぇ。初対面で、名前も知らないまま、もう2度と会うこともない人と、新年が明けたことを祝い合う。見知らぬ人の手のぬくもりが、その人の心の温かみを伝えてくれるような気がします。
クリスマスは友人たちと心の繋がりを確認するとき、と言ってもいいかもしれません。年を重ねるにつれて、その意味を大事に考えるようになってきました。
ジョンソンさんには彼なりの思いがあって、これからもクリスマスの正餐にはどんなに誘っても絶対に来ないでしょう。でも、お正月にお呼びしたら、来ると言っていました。この冬は寒さが厳しいので、暖かい鍋料理で、心身ともに温めるつもりです。
皆様も、どうかよいお正月をお迎えください。
来年からは、齋藤さんがいくつかのテーマのエッセイを平行に進行させているのがとってもおもしろくて、私もそうさせていただこうと考えています。来年もどうぞよろしくお願いします。
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