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63 レカミエ夫人の肖像
2007年3月21日
齋藤 恵 齋藤 恵 [さいとう・さとし]

1948年埼玉県生まれ、1970年に大学卒業後、時計メーカーの輸出部門に就職。8年間の勤務の後、宮仕えには向かない自身の性格を認識して、父の経営していた小売店 (創業1912年 = 大正元年)に転身しました。歴史、風土、絵画、言語等に関心が強く、駄文ながら文章を書くことがストレス発散の手段のひとつになっています。ささやかながら、会社を経営するというのはそれなりにたいへんです。ここに書かせていただくことは、そうしたストレスの大いなる発散のためですので、お読みになる方もどうぞお気軽に。


レカミエ夫人の肖像


2枚の絵を掲載させていただきましたが、タイトルは両方とも 「レカミエ夫人の肖像」 (Portrait de Madame Recamier) と言います。モデルは、レカミエ夫人という同一人物なのですが、絵の作者はもちろん違います。

上段は、パリのルーブル美術館にあるもので、作者はジャック・ルイ・ダヴィッド (Jacques Louis David 1748 〜 1825) です。制作年は1800年。ナポレオンのお抱え画家として活躍した人物です。

下段は、ダヴィッドの弟子でもあった、フランソワ・ジェラール (Francois Gerard 1770−1837) の作品で、同じくパリのカルナヴァレ美術館 (Musee Carnavalet) の所蔵です。制作年は1805年です。

レカミエ夫人とは、ナポレオンとほぼ同時期に、パリの社交界・サロンで名を馳せた女性です。ナポレオン自身からも、宮廷の女官として仕え、愛人になるようにと言い寄られたという記録があります。でも彼女は断りました。15歳の時に出身地リヨンの富裕な銀行家、ジャック・レカミエ氏と結婚し(当時、氏は42歳)、その後は言い寄ってくる多くの著名な男達を拒むでもなく、受け入れるわけでもなく、不思議な人生を送りました。一時期はパリ社交界の花形となり、夫人のサロンには多くの人々が出入りしたのだそうです。

彼女が身につけている服装をご覧ください。時はフランス革命後しばらくしてナポレオンが台頭していた頃です。当時の社交界では、けばけばしいロココ趣味から抜け出した、古代趣味とでも言うべきファッションが流行していました。レカミエ夫人の服装は、白く長いひだを裾まで垂らした、簡素なギリシャ風衣装です。夫人は当時のファッションの先端にいたわけで、いつも白を身につけ、宝石は真珠だけに限っていたのだそうです。時代としては、革命直後の緊張が少しほぐれ、その反動として、開放性が好まれたのだと思います。

もうひとつ、夫人が腰掛けている椅子をご覧ください。このイスは現在でも、「レカミエ椅子」とよばれる形なのですが、これは寝椅子である、カウチソファーのちょっと短かめなタイプで、背もたれがありません。夫人がサロンで好んで使用した形なのだそうで、そのため、現在でもイスの形状の名前として残っているのだそうです。

ところで、あなたは上の2枚のうち、どちらがお好きですか? 描き方はかなり異なっており、見方によってはとても同一人物とは思えません。美術的価値としての評価は、ルーブルにある上段の方が高いようですが、夫人自身は、下の方が気に入っていたようです。上段のダヴィッド作の方には不満足で、結局ダヴィッドも自分ではこの絵を完成させることがなかったのだそうです。

記録によりますと、この上段の絵はナポレオンが夫人を愛人にするために、お抱え画家だったダヴィッドに命じて描かせてプレゼントしようとしたのですが、夫人が気に入らず、未完成に終わってしまったのだそうです。ダヴィッドと言えば、あの大作、「ナポレオンの戴冠式」を描いたナポレオンの首席画家だった人物です。ナポレオンの愛人になることを断った夫人ですから、絵そのものが気に入らなかったのか、あるいはまた、絵が制作されたその経緯に反発したのかは定かではありませんが、なんだか男に自身の女性的魅力を強調しているように見える下段の絵よりは、本当は上段の方が彼女の好みに合いそうな気がします、私見ですが。

パリには現在でも、レカミエの名がつく場所があります。夫人が後半生を過ごした場所の近くにある、「レカミエ通り」と、「レカミエ椅子広場」です。さらにまたそこには、「レカミエ」という名のレストランまであります。

このレストランがまた、観光客向けのいいかげんなお店ではなくて、ミシュランでも星をひとつ獲得するほどの、なかなかのお店なのです。名前が、Recamier でして、 4 rue Recamier, 75007 Paris というのが、レストランのアドレスです。6区と7区の境界線に近い7区側にあり、サンジェルマン・デ・プレの教会からも近い場所です。メトロでは、わかりやすい最寄り駅としては、4号線のサン・シュルピス (St.Sulpice)だと思います。どちらかと言うと、ビストロ風なのですが、ミシュランでもひとつ星をずっと獲得していますから、並々ならぬ力量があると思います。

さらにまたこのレストランがあるレカミエ通りの突き当たりには、小さな広場があり、その名前がなんと、「レカミエ椅子広場」 (Square Chaise Recamier) なのです。やりますねえ、この地域の人々は。

ちなみにこの界隈には、こうした小さな小さな広場がたくさんあり、それがまたなかなかの趣なのです。かつて、五木寛之氏の「デラシネの旗」という小説を読んだとき、ボザール(国立美術学校)界隈の描写が数多くあり、いったいどんな所なのかと想像心をかき立てたことがありました。その後パリとご縁が深くなり、よく足を運ぶうちに出かけたレカミエ椅子広場だとか、フルステンベルグ広場 (Furstemberg) 等、このあたりのちっぽけな広場は、想像していた通りの素敵な広場でした。観光コースではありませんけれども、行く値打ちは十分にあると思います。

レカミエ夫人は、1849年にパリで流行したコレラに感染して、71歳で亡くなったのですが、彼女自身は文学者でも、芸術家でもありませんでした。ましてや政治家でも、悲劇のヒロインでもなかったのですが、こうして歴史や地名にきちんと名を残しています。ちょうど、アルマ・マーラーのようにミューズとして、多くの男性を惹きつけ、彼等に刺激を与えた存在だったのかもしれません。

レカミエ椅子広場は、本当に小さな公園です。もう10年も前のことになるかもしれませんが、上の2枚の絵の写真を持って妻と共にレカミエ椅子広場を訪れたことがありました。少し高低のあるその公園のベンチに座って風に吹かれながら、夫人もこんな静けさと緑を楽しんでいたのだろうと、150年もの時を越えて思ったものでした。2枚の絵の中では、私は上段の方が好きです。

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