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縁の下のバイオリン弾き
188 ダニー・トレホ
2021年8月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
▲ ダニー・トレホ
ダニー・トレホをご存知ですか。ダニー・トレホを知っている人は多分相当な映画通だろうと思う。ひょっとしたら日本でも有名なのかもしれないが、そのへんはアメリカにいる私にはわからないので、まあ、あまり知られていない映画俳優だ、ということにしておく。

私が彼を初めて見たのは「デスペラード」というアントニオ・バンデラス主演の映画だった。ナイフ投げの達人の殺し屋を演じていた。異相というか悪相というか、とにかくものすごい顔つきの男で、「泣く子も黙る」というのはこういうご面相のことをいうのだろうとその時思ったものだ。裸の上半身に皮のチョッキをはおっていて、そのチョッキを開くと投げるためのナイフが皮帯にずらりと差し込んであるのが見える。

その時は名前を知らなかった。その後、色々な映画に出演することが重なって、私は自然に名前を覚えた。たいてい悪役で、最後には殺されることが多かった。

「デスペラード」はメキシコを舞台にした映画だったので、私は初めメキシコ人の俳優かと思った。しかし実はメキシコ系ではあるものの、ロサンジェルス近辺で生まれたアメリカ人だった。でも彼は「デスペラード」では一言もせりふをしゃべっていない。彼自身は「何か言わせてくれ」と監督に頼んだのだが、監督は彼の風貌だけ見せる方がずっと殺気を感じさせる、ということでせりふを許さなかった。それほど凄みのある顔だったのだ。


このほど、ダニー・トレホは「トレホ」という回顧録を出したので、私はすぐに買って読んでみた。そして驚いた。彼の人生は、普通ではとても考えられないような道筋だった。

副題が付いていて、それは「犯罪、立ち直り、そしてハリウッドへの私の人生」というものだ。

本は出たばかりでまだペーパーバックにもなっていない。トレホは今や世界中で有名なので、うまくいけばベストセラーになるかもしれない。そうなると日本で翻訳される可能性もある。そのために私は詳しい紹介をためらってしまう。ネタバレは避けたい。それでなるべくかいつまんで今年77歳の彼の軌跡をたどってみよう。

彼は親の不倫の結果生まれたので、冷たい空気の家庭に育ち、12歳で麻薬依存になり、同時に売人になった。またその依存を続けるために強盗をして捕まり、少年院を皮切りに、諸処の刑務所に出たり入ったりして最後は悪名高いサンクェンティン刑務所で押しも押されもせぬ顔役になった。サンクェンティンは終身刑の囚人を多く収容するところで、今はもう使われていないが死刑執行のためのガス室がある。使われていないのは死刑が現在では注射によるものになっているからで、死刑が廃止されたわけではない。どこの刑務所でも何度も懲罰用の独房に入れられ、彼は「地獄を見た」と言っている。

アメリカの司法はそもそも少数民族に対して冷たい。黒人の場合、全人口に閉める割合は30%なのに、刑務所の人口では60%だ。メキシコ人のコミュニティでも事情は五十歩百歩で、トレホの家族も男女ともに多数収監されている。問うまでもなくこれは社会の不正義である。

監獄の中でも顔役はなんでも手に入る。浴びるように酒を飲み、ヘロインやコカインを打ち続けた。そういう生活を10年以上続けたあげく、彼は回心に見舞われるのだ。

トレホの場合は神の助けを必要とした。アメリカで生まれても、家庭は伝統的なメキシコ人のそれであるから、カトリック教会の影響は強い。それまで宗教を軽んじていたトレホだったが、せっぱつまって神にすがって麻薬をやめ、禁酒に成功した。

普通はそんなことはできない。麻薬の誘惑は常人の考えられない強力なものだ。例えばヘロインをやめようと思ったら、メサドンという別の麻薬を使ってその助けによって悪習から抜け出すのが一般的なのだが、トレホは「コールド・ターキー(冷たい七面鳥、なんの助けもなしに意志の力だけで依存を止めることを表す俗語)」で完全に依存から脱した。

自分自身を救っただけでなく、彼は自身の経験を元にして他の囚人の薬物・アルコール依存からの回復を助けるカウンセラーになった。塀の中に入っている方が外で暮らすよりも長かったのだが、25歳で最後に釈放された後もそのままカウンセラーを続けた。これが自分の天職と考えたからだ。

ある晩遅く、彼は知らない若者から電話を受けた。麻薬のことで相談したい、という。トレホは承知し、翌日指定された場所に行ってみた。若者はいなかったが(多分麻薬の誘惑に負けたのだろうと彼は言っている)、そこは「暴走機関車」(1985年)という映画の撮影現場だった。助監督に「あんたいい顔をしてる。監獄内での暴動のシーンがあるんだが、エキストラで出てみないか」と言われた。エキストラはそれまでにもちょっとやったことがあったから承知した。すると「ボクシングの経験は?」と重ねて問われる。サンクェンティンでボクシングチャンピオンだったトレホはこれも「やってみよう」と受け合った。あれよあれよという間にエキストラから役付の俳優になって、主役のエリック・ロバーツ(ジュリア・ロバーツの兄)とボクシングで一戦を交える場面を撮った。

これが彼の俳優人生の始まりで、そのときトレホはすでに40歳を超えていた。それからはどんな役も断らず、大変な数の映画やテレビに出演した。とうとう「マチェーテ」「マチェーテ・キルズ」という映画で主役を張るまでになった。

マチェーテというのは山刀のことだ。彼は最初、「スパイ・キッズ」という子供用の映画にこの名前の役で出演した。それが爆発的な人気を呼び、世界中の子供に名を知られるようになった。「マチェーテ」出演時、彼は69歳だった。

「映画に良し悪しなんてあるもんじゃない。どんな映画でも見えないところで一生懸命働いている人がたくさんいる。みんな家庭を持っていて、子供を養っているんだ」と言っている。

悪役をたくさんやったことで、トレホは「ハリウッド映画の中で一番多く殺された俳優」になったそうだ。その死に様の多彩さは他の俳優の及ぶところではない。

トレホの偉いところは世界的に有名なスターになっても、薬物依存のカウンセラーを辞めなかったことだ。今でも呼ばれればどこへでも出向いていって依存症から抜け出す話をする。学校や監獄では、自身の経歴から彼の話は強い説得力を持つ。

人の助けになることをするのが神に対する謝恩だ、と彼は言っている。

そういう話だけするとトレホは大変高潔な人格者のようだが、実は回心を経験した後も生来の女癖は治らなかったようで、前後5回結婚している。自分で「一夫一婦制は俺には向かない」というだけあって、結婚はしていても、外に女を作ることは平気のようだ。カトリック教徒としてよく神様に申し開きができるものである。

あの顔がなんでそんなにモテるんだ、と私などは思ってしまうのだが、若い頃の写真を見ると結構ハンサムだったらしい。その上、マッチョな男にひかれる女はいくらもいるのだろう。でも現在では、男尊女卑の人生はすべて誤りだった、俺は有毒な「男らしさ」の観念にやられていたんだ、と告白している。

極貧の環境から重罪犯となり、さらにハリウッドのスターたちと共演を果たす「セレブ」になった経歴はそのままスクリーン上の物語だけれど、トレホは年老いてからの苦難にも言及している。それは彼の息子と娘の麻薬依存だ。自分はローティーンの頃から麻薬をやっていたくせに、家族だけは守りたいと必死にあがくのだけれど、子供たちは親の行跡をそのままたどり、家を出て行方不明になったり、リハビリの施設に入ったりしている。親にとってはこれ以上の地獄はない。トレホはその当時の苦しみを切々と訴えている。

現在では子供は依存から脱していて、わけても息子は映画監督となり、トレホの生涯をかえりみた記録映画を撮った。

去年コロナ禍に直面して病院で働く医師や看護師に自分の経営するレストランから何百食もの無料の炊き出しをした。



好奇心からこの本を読んだのだが、読んでほとほと感心してしまった。なんと言っても薬物依存との闘いがすごい。

私は実は自分は依存症になりやすい生まれつきなのではないかと疑っている。というのは禁煙に成功するまでにえらい苦労をしたからで、あんな苦しみはもうごめんだ、と肝に銘じているからだ。

私の家庭ではタバコに全く縁がなかった。親がタバコを吸わないので、私は大学を卒業するまでタバコを吸ったことがなかった。それが香港に移住していたずらに手を出したのが運の尽き。何度もやめようと試みたが、一旦は成功するかに見えても、また誘惑に負けてしまう、ということを何度も繰り返した。拾ったことはないけれど、禁煙中は、道に捨てられたタバコの吸い殻を自然にじーっと見つめることがやめられなかった。最終的に禁煙に成功したのは30年ぐらい前のことだ。そのぐらいだから、香港なら手にはいったであろう麻薬は一度もやったことはない。

禁酒の方はやめてから8年が経つ。これもやめるのには苦労した。やめられないにもかかわらず、キリスト教の影響で、酒を飲むことは悪徳だと思っていたから、悪に金を使うことはないというわけで安酒ばかり飲んでいた。今になってみるとそれが後悔の種だ。どうせなら金を使って美酒を飲んでおくべきだった。もう遅いけどね。

フィドルを弾く酒場で、一時私はノン・アルコールのビールばかり飲んでいた。一緒に弾いていたフィドラーのアイルランド人、デクランが、「あいつの飲んでいるのと同じやつ」とウェイトレスに注文して、しばらく飲んでから、「どうもおかしい。このビールはいくら飲んでも酔っ払わない」と独りで不思議がっていた、というエピソードがある。

一度病院でモルヒネを打たれたことがある。それは麻酔のためだったが、なんだか眠くなっていくのが大変な快感だった。それで麻薬の誘惑を想像することができたけれど、深みにはまっては大変、という感覚の方が強かった。手を出したら身の破滅、ということは深く承知していた。

こんなことを言っているようじゃ、私の依存体質も、当てにはならない。でもアメリカでの麻薬の蔓延は本当に救いようがない泥沼状態になっている。

麻薬に対処するには厳罰主義で臨む、という今までの態度は間違いだった、という観点がアメリカでは徐々に受け入れられつつある。医療問題として考えるべきだ、ということだ。実際に法治主義では前科者を大量に作るだけで、なんの成果もあげられなかったのだから、別のアプローチが考えられてしかるべきだ。でもそれは麻薬の全面的な解禁につながる。現在のアメリカでそれが実現できるか、というと、銃問題の解決と同じく、まず受け入れられないだろうと考えざるを得ない。

トレホなら、なんというだろう。


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