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縁の下のバイオリン弾き
183 あぶら
2021年3月1日
西村 万里 西村 万里 [にしむら・まさと]

1948年東京生まれ。大学で中国文学を専攻したあと香港に6年半くらし、そのあとはアメリカに住んでいる。2012年に27年間日本語を教えたカリフォルニア大学サンディエゴ校を退職。趣味はアイルランドの民族音楽 (ヴァイオリンをひく)と水彩画を描くこと。妻のリンダと旅行するのが最大のよろこび。
これはいつどこで読んだのか忘れてしまったのだけど、鯨漁で有名だった和歌山県の太地では、昔宴会で鯨汁が出されることが多かった。昔といっても多分第二次世界大戦の前ぐらいのことだろう。その後片付けをした少女たちの中に、鯨汁のお椀を重ねて運ぶものがいるとひどく叱られたものだった、と言う。

容器を重ねると内側にも外側にも脂っこい鯨汁が付いてしまう。洗剤などなかった時代にそれをきれいに洗うのは二重手間だから、そんなことはしてはいけない、ということだったそうだ。

それを読んで、私は昔の日本食がいかに脂肪に乏しかったか、ということを考えないわけにはいかなかった。

私が日本にいたのは1970年までだった。当時の日本は高度経済成長のとば口のあたりで、今のように発展した国ではなかったから、食材も豊富ではなかったし、それに全体として食に興味を持つ人はあまりいなかった。美食家と言われる人はいたけれど、それはごく珍しい変わった趣味の持ち主だと見られていた。ひどい飢餓に襲われた戦争中の記憶が大人の脳に残っていたのだろう、その日その日の食事ができればオンの字だ、と言う空気がただよっていた(私が生まれたのは戦後のことです、念のため)。

そして私は香港に行った。その頃の香港は日本よりもさらに貧しかったに違いないのに、私は強烈なカルチャーショックを経験した。

私は中国人の家庭に間借りをしたけれど、そこでは料理を作ってくれるわけではなかったから、初めから外食だった。香港はその当時から中国料理のメッカで、目抜き通りには料理屋が軒を並べていた。中国料理が好きならば高いのも安いのもよりどり見どりで存分に楽しめたはずだけど、私は日本であまり外食をしたことがなく、しかも食べたものはかなり限られていた。中国料理なんかラーメンぐらいしか食べたことがなかった。

経験が少ないのだから当然だけど、困ったのは中国料理が口に合わない、と言うことだった。出てくるもの全てが油で調理されていて(と思った)、目で見て材料が何かわかっても、舌がそうとは受け取らなかった。

私はよほど淡白に生まれついていたのだろう、中国料理に慣れるまでにはずいぶん時間がかかった。

その記憶があるから、それ以後日本料理と中国料理の差について長く、深く考えざるを得なかった。結論として考えたのは、中国は豊食の国で、日本は粗食の国だ、と言うことだ。私は別にそれだからといって中国料理に圧倒されたのではない。日本の料理は優れている、ただ材料が乏しいだけだ、と思っていた。

でもただ一つ、日本料理は脂肪が少ない、と言うことだけはどう考えてみても否定しようがない事実だ。今でこそ脂肪は健康に悪いと言うことになって、そのために日本料理の優秀さが持ち上げられているけれど、私が香港にいた頃はそれは別に自慢できることではないように思われた。

私は今でも時々近代以前の日本の食生活を考えて、その頃の人々が気の毒になる。

考えても見てください。外国から輸入したのではない、日本本来の料理に脂こいものがどれだけあるだろうか。

まず何よりも、当時の日本では動物の肉を食べなかった。動物で食べられるものは魚か鳥類に限られた。

なんといっても日本ではうなぎだろう。脂っこいものはもうほんとにこれだけ。天ぷらは16世紀に南蛮人がもたらしたものだし、牛鍋は幕末か明治の初年に、とんかつや水炊きに至っては明治の終わりに発明されたものではなかっただろうか。

「梅暦」と言う江戸時代の小説(1832−1833)に「今夜はあくどく天ぷらと行くか」と言うセリフが出てくる。天ぷらは高級料理ではなく、江戸時代には屋台で食べるものだったそうだ。そして、渡来して何百年と経っているのに、そのころでも「あくどい」と思われていたと言うのは不思議な気がする。要するにそれだけ脂っこいものが存在しなかった、と言うことなのだろう。

マグロのトロなんかは確かに脂がのっている訳だけど、当時の若者たちは刺身を食べて、現代の若者たちがハンバーグやステーキを食べたと同じような満足感を得られただろうか。以前に書いたように、中国では仏教の僧侶でも若者はチャーハンを食べるのだ。肉は入っていないけど。


海岸に近いところに住んでいれば、地引網などで漁が済んだ後、小魚を持ち帰って味噌汁の実にする。小魚からだしが出るから味噌を入れるだけでいい。でも海に近くない人々はどうしたか。丸元淑生によると、油揚げを入れたのだ。油揚げで油を加え、コクを出したのである。

日本料理にいかにたくさんの油揚げを入れたメニューがあるか考えてみれば、当時の人々の油に対する渇望がわかるような気がする。油揚げだけではない。さつま揚げも厚揚げも、ともかく油脂欠乏という欠点を補うものだったに違いない。

江戸時代の海岸から遠く離れた山国の農民などは、現在のベジタリアンそこのけの質素な食事をしていたのだと思う。



そういえば、無知を告白しなければならないが、私は「鴨南蛮」という料理の名前が何を意味するのか知らなかった。「南蛮漬け」という漬物があって、それには唐辛子が入っているから、「南蛮」というのは唐辛子を入れた料理なんだと思っていた。

でも「鴨南蛮」には唐辛子は入っていない。それがおかしいとは思っていたけれど、特に追求することもなかった。その謎が解けたのはつい最近のことなのだ。

鴨南蛮の南蛮はネギのことだった。当時の南蛮人、つまりスペイン人やポルトガル人がネギを非常に好んだので、ネギをたくさん入れた料理を南蛮と言い慣わしたそうだ。


私はそれを知って茫然とした。なるほど、西洋人は地の果てのような日本にきて、私が香港で感じたような食事に対する絶望を経験したのだろう。肉は食べられない、乳製品は全くない、野菜はあるが西洋で馴染みのあるものは一つとしてない。いや、ただ一つだけあった。それがネギだったのだ。

スペインのカタルーニャ地方には玉ねぎだけではなく、日本のネギのようなカルソッツとよぶ長ネギがある。クライブ・オーウェンがアーネスト・ヘミングウェイを演じた「私が愛したヘミングウェイ」(2012)という映画があった。ヘミングウェイはご存知のようにスペイン内戦に参加している。のちに妻となるマーサ・ゲルホーンに野原に生えている長ネギを引っこ抜いてそのまま食べてみせるシーンがある。「スペインのネギだよ」と彼は言う。

日本にきて何一つ口に合うものがない神父たちは、少しでも故郷のネギを思い起こさせる日本のネギを見てどれほどホッとしたことだろう。その味にどれだけ故国を思い起こしたことだろう。だから料理にネギをたくさん入れた。それを日本人が「南蛮」と呼んだのだ。

ネギだけではない。鴨が入っている。当時の日本で魚ではない、まごうかたない肉である鳥類の、中でももっとも脂肪のついた鴨が西洋人にいかに美味に感じられたか、想像にかたくない。

いや、もちろん、キリシタンご禁制の当時の状況でネギや鴨がおおっぴらに食べられたはずはないが、想像するだけでも南蛮人には癒しと感じられたのではないだろうか。

唐辛子も南蛮人の好むところで、だからそういうものも南蛮と呼ばれたのであるが、ネギがそんなにも好まれたということは私にはとても思いつけないことだった。

動物の肉が食べられなかったばかりではない。その頃の日本には動物の脂もなかった。菜種油、ごま油など、植物性の物ばかりで、ラードもなければヘットもなかった。冒頭に触れた鯨の油などは鯨漁を営む特殊な地方でしか食べられないものだった。それだけに油脂に飢えた若者などには美味に感じられただろう。

油が無ければ夜も日も明けない中国とはなんという違いだろうか。



現在、日本ではベジタリアンの紹介はすでに終わり、さらにその先を行くビーガンが話題になっているらしい。乳製品や卵も受け付けない「完全菜食主義」だ。さすがに
その実行には困難がともなうらしく、「1週間やってみた」「一ヶ月と期限を切って」など、条件付きでビーガンをトライする実験が報告されている。

私はビーガンを悪くいうつもりは全くないけれど、予想されるその流行にはアメリカでの普及が力を持つのではないかと思う。しかし、アメリカで「流行している」と言われていても、必ずしも全てのアメリカ人が受け入れているわけではない、ということがある。

例えばダイエットなどでもそうだけれど、その流行は早くいえば、中産階級以上の経済に余裕のある、特に白人層の間での流行なのだという視点が日本では欠けている。厳しい経済状態にある層ではダイエットに挑戦する余裕もないことが多いのだ。

それを考えると、日本でビーガンがはやるというのは、もしはやるとして、なんだか過去に回帰しているような気がする。日本人は戦後の困窮から脱して超高度経済成長を成し遂げ、一時は飽食美食にふける金満家になったけれど、現在はその段階もすぎ、健康に留意するようになった。折しも日本食は世界一の健康食だと絶賛されるようになっていた。

考えてみれば、近代以前の日本食はそのままペスカタリアン(魚を食べるベジタリアン)だったではないか。魚も食べない、乳製品は無論存在しない「精進料理」はビーガンと言っていいのではないか。

ビーガンの実験で、その実行に障害となるのはカツオブシで取っただしなのだという。どんなにベジタリアンに見える食事でも、だしにカツオブシが入っていることが多いのだ、ということだ。

魚を食べないビーガンではそれは受け入れられない。でも精進料理ではだしに干ししいたけを使う。もし本当にビーガンになりたいと思えば、日本食はそれにもっとも近いところにあるのではないだろうか。何も「ビーガン」などと、外国の真似をすることもないのではないか。

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